自分だけの靴を育てる――英国首相が実践したダンディズム

安い靴は不経済だからね――。2007年6月、英国のトニー・ブレア首相は退任を目前に控え、英紙ザ・タイムズのインタビューにそう答えている。当時、彼が履いていたのは、英国中部のノーサンプトンで1873年に創業したチャーチ社製のウィングチップ。ネットで価格を調べてみると、1足9万円近い。気軽に手を出せる価格ではないが、インタビュー記事によると、彼はその靴を18年間、愛用し続けた。1997年の首相就任以来、定例で行われる議会の質疑応答にも、その靴を履いて出席したという。

チャーチのウィングチップはグッドイヤー・ウェルト式の堅牢な紐靴で、流行とは無縁の無骨なデザイン。18年間で靴底を取り替えたのも1回だけだという。ブレア氏が自分で行っていたのかは知らないが、丁寧に靴の手入れをしたのだろう。9万円の高価な靴も18年履き続ければ、1年当たり5000円だ。間に合わせの安い靴や流行の靴に飛び付いて数年で履きつぶしてしまうより、経済的なのかもしれない。

本当にいい靴は「育てるもの」だという。今世紀に入って間もないころ、服飾評論家の落合正勝さんにそのことを教えてもらった。靴の汚れを落とし、専用のクリームをつけてブラシで丹念に磨いて育てていく。単純だが、根気のいる作業。落合さんのお宅で、実際に20年以上愛用して、見事に育った靴を何足か見せてもらった。単に高価な靴なら、お金さえあれば誰でも買える。それを手入れして履き続け、自分だけのために「育てる」ことに価値がある。それこそがダンディズムの本質でもあるという。労働党の党首ながら恵まれた環境で教育を受けたブレア氏はその実践者だったのかもしれない。

こうした価値観を共有する人が日本でも増えているようで、近年、大都市を中心にバーのような洗練された店内で靴磨きを依頼できる専門店ができたり、一般の人向けに靴磨きのハウツーを紹介する本の出版が相次いだりしている。東急ハンズでも、30~40代の男性を中心に靴磨き用品を扱うコーナーを訪れる人が増えているという。そうした動きを受けて、同社は4年前から、コロンブスと共同で、プロ仕様の靴磨き用品を開発して販売し、ヒット商品になっている。東急ハンズでしか手に入らないオリジナル商品。「シューケアではなく、良いモノをより長く使うシューライフ」がコンセプトだ。

家庭での使用を想定し、靴磨き用クリーム特有の溶剤臭を抑えるため、男性用香水にも使われる「レザーノート」を配合したり、汚れを落とすために使う馬毛ブラシの持ち手部分を持ちやすいように微妙にくぼませたり、1年以上かけて試行錯誤を重ねた。そのこだわりを紹介するだけで、一冊、本を書けてしまえそうなほど。コーナーの販売員と立ち話をしていると、実際、靴磨きのプロにも愛用者がいるのだとか。

そうした東急ハンズでしか手に入らないグッズに加え、同社にしかいないスタッフも心強い味方だ。各店に靴の手入れに精通したスタッフがいて、相談すると「待ってました」とばかりに熱心に相談に乗ってくれる。「9(く)2(つ)3(みがき)」という語呂あわせから日本記念日協会によって「靴磨きの日」に認定された9月23日には、「シューケア・マイスター」という社内資格を持ったスタッフも新宿、銀座、北千住、横浜の各店に誕生する。「靴好き」にとっては、まさに至れり尽くせり。単にモノを売り買いするだけではない、ダンディズムのヒントも東急ハンズの売り場には詰まっているのである。

(YOMIURI BRAND STUDIO Creative Editor/Writer 高橋直彦)

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