食卓に流れる珈琲の匂い

「焦げくさくして味ふるに堪ず」。今から200年以上前、江戸後期を代表する文人で狂歌師の大田南畝(なんぽ)が、オランダ人の船でコーヒーを飲んだ感想を「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」という随筆にそう記している。日本初のコーヒー飲用記ともされている。日本茶に慣れ親しんだ味覚に、ヨーロッパからもたらされた褐色の液体は合わなかったようだ。

南畝が辟易した「カウヒイ」は「可否」と記され、文明開化の日本で西欧の文化を象徴する嗜好品になっていく。やがて「珈琲」「カフェ」「コーヒー」と綴られ、日本人の生活に浸透していった。財務省の統計によると、生豆に換算したコーヒーの輸入量は、記録の残る1887年が18トンだったのに対し、昨年は45万8961トンを記録。今や、コンビニエンスストアで豆から挽いた淹れたてのコーヒーを100円で楽しめる時代でもある。

それにしてもコーヒーは不思議な飲み物だ。別になくても生活に困りはしないが、なければ日常が色あせ、味気なくなってしまう。詩人の茨木のり子さんは1992年に出版した詩集に「食卓に珈琲の匂い流れ」という作品を残している。戦後の貧しい時代から徐々に豊かになっていく生活を、日々の暮らしの中で飲んだコーヒーの思い出を通して描いている。「インスタントのネスカフェを飲んだのはいつだったか」と振り返り、「やっと珈琲らしい珈琲がのめる時代」になったことを喜んだ。そして、詩の最後をこう締めくくっている。

静かな
日曜日の朝
食卓に珈琲の匂い流れ......
とつぶやいてみたい人々は
世界中で
さらにさらに増えつづける

実際、そうつぶやいてみたい人は今も増え続けているようで、コーヒーを自宅で淹れるための道具をそろえる雑貨店が目立つようになった。東急ハンズもその一つ。今年3月、新宿店にコーヒー好きを自他共に認めるスタッフを店主にした「一杯の珈琲商店」というコーナーを設けた。売り場には、コーヒーを淹れるために必要な道具など約450点をそろえる。お湯を注ぐ専用のポットだけでも30種類近くあり、海外からわざわざ訪れるマニアもいるのだとか。

もっとも、何をどう選べばいいのか、初心者ほど悩んでしまう。そんな時、一杯の珈琲商店で店主を務める向井崇広さん(39)が相談にのってくれる。客が希望すれば、気になるポットで実際にお湯を沸かして注ぎ、感触を確かめてもらう。これまで10点以上試した客がいた。品物をあれこれ試し、結局ネットで購入する客もいた。それでは短い時間でたくさんの商品を売るという商売の原則からは外れてしまうのでは......。しかし、「それでも構いません」と向井さんは話す。売り場を訪れてもらうことで、コーヒーに興味を持ってもらい、コーヒーを淹れる楽しさを伝えることが目的だからだ。

自宅でも職場でもない、心地よい第3の居場所という意味で、街中のカフェや公園などを「サード・プレイス」として見直そうという取り組みが注目を集めている。そこで見知らぬ人たちが緩やかにつながり、コミュニティーを築いていこうという試みだ。その意味で、東急ハンズが設けた新しい売り場も、サード・プレイスと言っていいだろう。買い物に加えて、気さくなマスターのいる、馴染みの喫茶店にふらりと立ち寄る感覚で人との出会いを楽しめる――。それが他の大型商業施設にはない、東急ハンズの魅力でもある。

(YOMIURI BRAND STUDIO Creative Editor/Writer 高橋直彦)

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